高橋信治についてのあれこれ

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About_5

 

History
1961.10.6 長野県生まれ
小学校6年の時に隣の家のお兄さんにギターを見せて貰ったのが初めてのギターとの出会い。 中学生になって全音のフォークギターを買ってもらい、初めて練習した曲が「世界は二人のために」。 ビートルズと出会ったのを始めに、かぐや姫、ジェフベック、ベンチャーズ、チューリップ、オフコース、キッスなどなど手当たり次第に弾いたり歌ったりの中学、高校時代。 一貫していたのはやはり「ギターの音色が大好き」だった事。

 

楽器の雑誌で70年代のアメリカのギター工房が紹介された記事を読んで訳もわからずに憧れた中学3年ころの時代。

高校2年生あたりからは自分のエレキギターのピックアップをいじったりネックやブリッジを調整したりと、今思えばあの頃から始まっていたんだな…という気がします。

【楽器製作に関する歴史】

1981年1月(19歳) Atlansia Instruments Technology 入社 入社時は、林社長と自分の2人だけの体制で、下請け仕事のピックガード製作を主にしながら、アトランシアオリジナルベースなどをハンドメイドで少量製作していた。 その後ボルトオンタイプのギターネックの生産開始に携わりながら、年上の後輩も含めた6~7名の部下を持ちネック、ボディの製作、塗装、組み立て工程まで担当。都内の楽器店、リペアショップへの営業活動も経験する。

1985年6月(23歳) 4年半のアトランシアでの勤務を終え退社、T’s Guitarsの前身となる「Kraft Guitar Works」を単身設立。

自宅庭の片隅に小さな工房を作ろうと、真夏の暑い日にスコップを持って独りで汗を流しながら基礎コンクリを流し込む穴を掘った事は忘れがたい。(家族からも白い目で見られていた。。。)

当初リペアを主な業務とするつもりだったが、開業を聞きつけた業界の方からのエレキギターのネック・ボディの注文が増えたために方針を変更。

松 下工房を始めとするリペアショップ、カスタムギターショップからの交換用の特注ネック、ボディの製作依頼や、国内ギターメーカーからの試作品・プロ用モデ ルを請け負うことが主な仕事内容となった。当時は言えなかったが、かなり沢山のプロミュージシャン用のこだわりの楽器を作らせていただいた。その経験は自 分の成長の大きな糧となったと思う。

創業1年ほどして、輸出用エレキギターブランド「Squire」のセットアップの仕事も担当。楽器の事は全く知らない母親、叔母に仕事を教えこんで手伝ってもらいながら、3人で1日60台の組立作業をこなしていた頃もあった。

1987年7月(25歳) 有限会社ティーズギターと社名を変更し法人登記し、代表取締役に就任する。

角前工業団地に自宅兼工房を建て、翌春に引っ越し。その後機械設備や社員を増やしつつ、本格的にエレキギター完成品のOEM生産を主体としていく事になる。

コンピュータ制御のNCルーターも、社員が4名ほどの時期に導入。量産としての設備ではなく、複雑な工程を間違いなくこなすための多数のツールを装備したもので、その後のアーチトップギターの削り出しなどに役に立った。

1995年(33歳) 旅行で立ち寄ったタヒチとハワイでウクレレに出会う。

この時は、2万円ほどで購入したタヒチアンウクレレでこれほどまでに自分の人生が変わるとはもちろん思わなかった。

1998年(37歳) エレキギターの生産に加えて、アコースティックギターとウクレレのOEM生産(相手先ブランドでの生産・供給)を開始。アコースティックギターは少量だがオリジナルモデルも製作。

ウクレレは、ナカニシウクレレの故中西清一氏の技術供与によってNancyブランドを担当。

製作開始に先立って、師匠である中西さんに日曜日に何度も通い弟子をしてウクレレ製作のノウハウを学ばせていただきました。お付き合いが始まって数年した頃に電話でふと、「お前さんはいつか世界で活躍するようになるな。」と言って下さったことは忘れられません。

2000年5月(38歳) ハワイ島のカビカ工房を訪問。

1日ではあったが、元大学教授であるDavid C Hard(カビカ)氏がきちんとした理論を持って製作するウクレレのノウハウを学ぶ貴重な機会を得る。

同時にカビカ氏の紹介でハワイ島の木材商Winkler Woodを訪問。そこで楽器用材としてのコア材の選び方を学びつつ、初めてまとまった量のコア材を購入。 実はこの時のWinkler氏は、現在IMUAウクレレを共同経営しているJormaの父親。Jormaとは全く別の機会に偶然日本で知り合い、友好を深めることになる。不思議な縁。

ハワイ島訪問と前後して、オリジナル「T's Ukulele」を生産開始。当初は完全に自分独りでの製作で、半分趣味のような気楽な製作だった。

ちなみに、T's Ukulele第1号機は実はベビーウクレレ。3号機はまいたけ氏所有のアッシュのパイナップル。(最初の頃の中ラベルは「T's Guitars」のブランド)

【T's Ukulele 初期の生産本数】 2000年は年間で20本弱の製作。 2001年は年間で5本ほど。 2002年が少し増えて35本。 2003年には営業努力が実って140本と数字を伸ばしています。

2003年11月(42歳) Ukulele Exhibition初出展 ネットでのウクレレパーツ購入で知り合ったハワイのウクレレ製作家に誘われるまま、ウクレレ2本持ってふらっと参加。沢山の人と知り会って世界が広まった。

2004年 T's Ukulele 年間生産本数250本

2005年11月(44歳) 再びハワイのエキシビションへの参加を決意。日本ならではの感性を海外にアピール出来ないものかと考えて製作したミニテナー「モミジ」が、「Best in Show」受賞!

Best とは言うものの、テナーウクレレが標準のハワイでの「テナー以外のウクレレの中の1位」ということで、実際はテナー部門にも「Best in Show」が居て、モミジは事実上2位。

2006年11月(45歳) Ukulele Exhibition、3回目の出展。 せっかくならばやはり総合1位を狙いたい、という思いでテナーウクレレを製作。 スポルテッドの栃の木でやはり和風なモノトーンをイメージした作品で見事総合1位「Best in Show」獲得!

2010年7月(48歳) ティーズギター創業25周年(個人企業であったKraft Guitar Works創業時から数えての通算)

2011年2月(49歳) セイレン株式会社設立

2011年7月 セイレンとIMUAでの活動をスタートするため、有限会社ティーズギターを後任に譲り渡し、退社。表向きには7月1日がセイレンとしてのスタート。

2012年(50歳) Jorma Winkler と共同でIMUA 社を創立。オアフ島ホノルルのカカアコ地区にファクトリーを設置し生産開始。

2013年3月 ドイツのフランクフルトメッセにIMUAとして参加。 ここでウクレレベース用の金属弦と出会い、それが新しいモバイルベースの開発につながる。

2013年5月 東京ハンドクラフトギターフェスで、Mobile Mini Bass のアコースティックバージョンとエレキバージョンを発表 この時点ではエレキ用のオリジナル弦が完成せず、ブリッジ部でピエゾマイクで音を拾っていた。

2013年11月 セイレン開始時の2011年には、有限会社ティーズギターに残っていたウクレレ製作スタッフに「T's Ukulele」をOEMとして製作してもらいそれを仕入れて販売していたが、クオリティのコントロールを確実にするために徐々にセイレン工房内での製作にシフト。

2013年11月にセイレン工房を一回り大きな場所に引っ越すとともに塗装設備などを大型のものに入れ替え、量産設備を整えた。 これによってT's Ukuleleブランドの自社生産が可能になり、現在では若いスタッフと協力して100%自社生産を実現している。

2014年5月 マグネットピックアップ対応の新開発したベース弦を採用したEMB(Mobile Mini Bass)のエレキベースバージョン発表。

2014年10月(53歳) EMB モバイルベース5弦 サウンドメッセ大阪にて発表

 

 

【ウクレレとの出会い】

1996年 旅行で初めて訪れた南国タヒチ。

観光をする中で訪れたパペーテという島の市営マーケット。

一角に怪しげな楽器がたくさんぶら下がっている店があり、民族楽器系の大好きな僕は散々迷ったり値切ったりした上で25,000円ほどのタヒチアンウクレレを「高いなー」と思いながらも購入しました。

1本の木からネックもボディも一体で削り出した素朴な楽器。ボディには彫刻が施されていて雰囲気は満点です。 でもこのウクレレは弦が全部同じ太さ。釣り糸が張ってありました。ちょっとびっくり。

この楽器がすごく気に入ってしまった僕は、その後の観光でもずっとウクレレを裸で持ち歩き、ジャカジャカと弾いていました。

すると、それまで言葉もよく分からないために地元の人とはほとんど話をしなかった僕だったのに、今度は行く先々で色んな人が話しかけてくるようになりました。

レストランの外の席で独りで酒を飲んでいた怪しげなおじさんが「ちょっと貸せ」と僕のウクレレを奪い取り、ダミ声でカッコいいブルースを歌い始めたり。

帰路に立ち寄ったオアフ島でも見知らぬ年配の女性が、 「私、実はタヒチ出身なんだよね。懐かしいなー」と声をかけてくれたり。

しまいには、ハワイ空港を離陸直前の飛行機の静かな客席の中、僕のウクレレを見つけたアテンダントが、 「お前はミュージシャンか?何か弾いて見せな。迷惑じゃないからいいから弾きなよ。」と笑顔でリクエストされたり。

小さくてどこに行くにも持って歩けること。 その楽器を見るとみんなが笑顔になって触ってみたくなってしまうこと。

僕はすっかりこの小さなウクレレが気に入ってしまいました。 日本に帰ってしばらくして、僕は見よう見まねでタヒチアンウクレレを作り、そしてハワイアンスタイルのウクレレの試作にも手をつけました。

15年後にこれ程ウクレレ中心な生活になるとは思ってもいなかった頃のことです。

ギターというものに出会い、それを作る仕事に就けたこと。

そしてまたウクレレと出会い、こんなにも沢山の方の楽器を作らせていただけたこと。

本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。

これからも楽器を作り続けられることが僕の幸せです。

ありがとうございます。

高橋 信治